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CONTENTS |
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メインページ |
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会社概要 |
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当社では日系人、特に新日系人(戦後、日本人とフィリピン人との間に生まれた日系混血二世)と呼ばれている人達に対し、様々な形で支援業務を行っています。当社では本支援業務に対しご賛同ご協力をいただける企業、団体を募集し業務提携をいたしております。 |
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会社案内 |
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オフィス平面図 |
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お問い合わせ先 |
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現在フィリピンでは、日本政府開発援助(ODA)により建設されたハイウェイ、空港、架橋などの大規模な公共建造物が多く見かけることが出来ます。それはこの50年間の日本によるフィリピンへの援助支援の歴史なのです。 |
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個人情報保護方針 |
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特定商取引法表示 |
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今年はその日本・フィリピン間の国交正常化50周年にあたります。フィリピン及び日本各地で様々な記念行事が開催される一方で、戦後、日本人とフィリピン人の間に生まれた新日系人問題が、現在フィリピン在住日本人たちにより提起されました。次の50年に向けて日比両国はどのような関係を築くべきなのでしょうか。それはこれからも増加し続けると考えられる新日系人への対応も当然の如く念頭に置かれなければなりません。 |
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主な事業内容 |
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国際結婚業務 |
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翻訳業務 |
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永住支援業務 |
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昨年まで両国間の交流が続く中で、フィリピンから多くの女性が日本に渡りました。経済の低迷で国内での就職が困難なため、フィリピン人は外国に雇用口を求めました。その中で特に経済成長の絶頂期だった日本は「黄金を生む国」に思えました。しかし外国人労働者への門戸を固く閉ざしている日本就労査証は、フィリピン人には簡単に取得出来ません。歌手やダンサー対象の興行ビザ取得が唯一の道だったのです。 |
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会社設立 |
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企業設立支援業務 |
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新日系人支援業務 |
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売買・リース契約業務 |
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最盛期には年間8万人以上のフィリピン人女性が家族援助の目的で、事実上仕事はホステスだと知りながら興行ビザを取得し日本に渡りました。そして日本で出会った男性と結ばれ子供が生まれました。彼女たちにとっては、日本人と結婚出来れば査証の心配が無くなる、家族のために多少のことは我慢できる、という事情があったと思われます。 |
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ホテル・航空券 |
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法律相談・市場調査 |
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その他の業務 |
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もちろんそれでも現在、両親の元で幸せに暮らす新日系人は多いでしょう。しかし日本人父親から養育や認知を拒否され、母親と一緒にフィリピンに渡り貧しい暮らしを余儀なくされるケースも続出しました。そのような境遇のフィリピン在住新日系人は2万人以上と言われています。 |
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お支払方法 |
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フィリピン情報ブログ |
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そうした新日系人は、フィリピン在住の日本人や日系人支援団体の援助により、厳しい境遇から脱出する道を日本語学習と日本での就職に求めています。 |
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日本にはすでに多くの外国人が暮らしています。少子・高齢化社会の中で外国からの労働者受け入れは避けて通れない道だと思います。しかし国際的に見て閉鎖的社会である日本で、外国人が日本人と一緒に働くことが出来る場所は極僅かであるのが実情でしょう。 |
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フィリピン国内では、フィリピン人看護師・介護福祉士の日本受入実現可能な「日比自由貿易協定(FTA)」合意により、そうした状況に風穴を開けるという期待もあります。しかし現実には、そこに日本語能力という大きく高い壁が立ち塞がっています。特に日本高齢化社会の介護医療等に関わる分野での日本語能力となると、その条件を彼らがクリヤしていくのは並大抵のことではありません。必然的に現状では、フィリピン人看護師・介護福祉士たちの多くは、受け入れ実績のあるアメリカを始めとする英語圏の国々に就労を求めています。労働条件に大差がなければ、アジアの中で英語の通じない国、日本(北朝鮮に次いで下から2番目に英語が通じない国と言われています)は避けられても致し方がないでしょう。FTAは日比国交正常化50周年の目玉になるはずでしたが、結局優秀な人材は英語圏に流れることになる可能性が大きく、フィリピン国内でもその反応は冷ややかな面も見受けられます。 |
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新日系人が一足先に日本の職場で働くことが可能ならば、後続フィリピン人と日本社会との懸け橋になることが出来ると考えます。更に言えば、日本人社会が外国人を仲間として抵抗無く迎え入れることが、日本がアジア諸国に本当の仲間として受け入れられることに繋がるのです。当社ではそのような日比関係実現の夢を各企業・団体に託したいと考えております。 |
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以下の毎日新聞掲載の新日系人関連記事をご参照下さい。 |
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家売り「日本で働きたい」 |
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この数十年、日本人とフィリピン人の間に生まれ、フィリピンで暮らす人たちが増えている。現地で「新日系人」と呼ばれる人たちだ。その数2万人以上。日本人の父親が養育や認知を拒否したり、フィリピン人の母親が行方不明になったため、極貧の暮らしを余儀なくされるケースが多い。日本生まれのその男性(24)が日本人の父とフィリピン人の母の離婚のためフィリピンに戻ってから10年がたつ。フィリピン国籍はなく、学校に通えず、まともな就職も最初からあきらめた。妻と子供2人。オートバイに客を乗せて走るのが仕事だ。収入は1日100ペソ足らず。子供のミルク代を絞り出すためパンのかけら以外、口に出来ない日が続いた。水を買うカネがなく、隣家からタライ1杯分を借りてきたこともある。そんな生活でも、日本人の父がフィリピンで買った家だけは、これまで手放さずにきた。今年、フィリピン中部セブ島に住む日本人がこうした「新日系人」の日本語教育・就職活動援助のための非営利組織「新日系人ネットワーク・セブ」を発足させた。その存在を知った男性は、家族を田舎に残してセブ島に移る決意をした。そこで勉強を続け、日本での就職の機会を得るため、家を売る決断をした。中学2年まで日本で暮らしたおかげで、日本語力は飛躍的に伸びた。表情も明るくなった、と周囲の人たちに言われる。「家は僕ら家族の最後のカード。もし、これで(日本行きに)失敗すれば、残るのは絶望だけ。唯一の望みは、日本人として故国に戻り、働き口を見つけることです。」静かに身の上話をしていた表情が厳しく引き締まった。 |
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肉親求め日本語学ぶ |
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今年2月、Aさん(16)の母は死去した。34歳。子宮がんだった。昨年2月、母の腰が大きく膨れた。費用を工面して病院に行くと、がんと宣告された。「手術しても無駄だ」との医師の言葉に、母を家に連れて帰るしかなかった。母は16歳の時、当時、50歳代の日本人男性と知り合ってマニラで同居し、Aさんを産んだ。しかし、間もなく別のフィリピン人男性と付き合い始めた。それを知った父は「娘が13歳になったら引き取る」と言い残して連絡を絶った。母娘は母の故郷に移り住んだ。98年、家が火事にあい、父の写真もすべて焼けた。「私の誕生日に父と会った。大きなビルの中で抱き上げてくれたことだけを覚えている。」故郷で再婚した母は3人の子供をもうけた。だが1日200ペソの行商人のフィリピン人の父の稼ぎでは食べるのがやっと。Aさんは中学校をなんとか卒業した。進学はあきらめた。 さらに母を失い、孤独が心を覆う。フィリピン在住の日本人が発足させた新日系人を援助する非営利組織には、父母を失った新日系人の子供たちがやって来る。母が家出し、祖母の内職を頼りに暮らすTさん(12)。1歳の自分を友人に預け、そのまま行方を絶つた母を捜すYさん(13)。「日本語を学べば、いつか日本に行き、肉親に会えるかもしれない。」新日系人は小さな希望を胸に、日本語の勉強を続けている。 |
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「日本へ転勤」 去った父 |
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K君(10)の母(32)は有頂天だった。勤めていたカラオケでフィリピンに進出する「独身の日本企業関係者」を名乗る男性と知り合った。ホテルで同居を始めた。やがて、K君を身ごもった。男性の滞在期間は6カ月と聞いたが不安はなかった。だが、別れは突然、やってきた。「日本に転勤すると言い出した。理由を聞いても『すぐに戻る』と答えただけ。」去った男性に何度電話をかけても、つながらなかった。会社の事務所を訪ねた。何も分からなかった。フィリピンで子供を抱えた女性が仕事を見つけるのは難しい。1日働いて50ペソ(約110円)ほどの日雇い仕事を始めた。家賃不払いで家を転々とした。K君の顔は男性にそっくりだと言う。日本の街角に立っていれば、普通の日本人小学生と思われるに違いない。しかし、生活苦で休学や復学を繰り返してきた。本来4年生のはずが、今年、やっと2年生になった。昨年、K君は熱帯性熱病にかかった。母は知り合いを駆け回ってお金を借り、病院に駆け込んだ。診断は「助かる確率は50%」だった。奇跡的に命を取り留めたK君の足には、その時に出た発疹の跡が今も残る。父の話を聞いても口を開かなかったK君に「日本に行きたい?」と聞くと、強くうなずいた。日本への思いが、K君を熱病から救ったのかもしれないと、母は思う。「父親が養育の責任さえ果たしてくれれば私のことはどうでもいい。」後悔が残る中で、母は息子が将来日本で暮らす日々に希望を託した。 |
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子供たち助け出したい |
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「なぜ、こんなことになったのか?」10代後半の長女と長男を日本に残したまま、故郷で葛らすフィリピン人の母親Sさん(42)は考え込んだ。86年、「貧しい家族を助けるため」日本に渡った。歌手やダンサー名目の渡航だったが、実際はホステスだと分かっていた。それでも1カ月数百ドル稼げば、家族は一息つける。覚悟していた。日本に渡って2週間が過ぎた。ある夜、Sさんをスカウトした日本人男性が突然部屋に入ってきた。レイプされた。「日本語も話せない。相談する仲間もない。くれたのはご飯だけ。給料もなかった。」間もなく妊娠に気付いた。「フィリピンに帰りたい。」と言うと、男性はあっさり許した。マニラ空怒に着くと、男性が先回りして待っていた。マニラでも同居を強制された。男性と一緒に日本とフィリピンを往復し、2人目の子供も産んだ。曲がりなりにも、このころまでは家族は一緒だった。しかし、学校を出た娘はアルバイトに熱中するようになり、息子は親と口を利かなくなった。壊れかけた家庭を懸命に維持しようとしたが、男性が実の娘に手を出そうとしたことを知り我慢できなくなった。03年、Sさんは家を飛び出し、1人でフィリピンに帰った。「あの男を殺したい。でもそれはダメ。だから日本に行って仕事を探し、子供たちをあの危ない家から助け出さないと。」日本で暮らす子供たちに会えない、そんな母の思いが募る。気丈に話していたSさんの涙が急に止まらなくなった。 |
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転落の一途父支えた子 |
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「おれのことはもういい。おまえが日本で就職して、幸せになれば。」50歳を超えた父の言葉に、20歳の息子は「何を言ってるんだ。一緒に日本に戻ろう。」と流ちょうな日本語で言い返した。フィリピン人の母と日本人の父は、日本で知り合った。息子が生まれた。父の仕事は順調だったが、バブル崩壊で地方の小さな店の経営はあっという問に行き詰まった。90年4月、一家はフィリピンに移り住んだ。それからは転落の一途だった。家に強盗が入り、財産を処分して作ったカネを奪われた。91年、母が銃で撃たれた。父は「カネのトラブルらしい。」と言う。その母が92年突然失踪した。覚せい剤中毒になっていた。すべてを失った父は「日本へは帰れない。」と思った。英語も現地語も出来ない父が頼りに出来たのは幼い息子だけだった。息子は家に閉じこもる父と日本語で話し、心を支えた。「おれは弱い人間だから一人では生きていけない。息子がいなければ、どうなっていたか。」親子の絆が父を救った。その息子が悔し涙を流したことがある。大学に進んだが、学費が続かなかった。フィリピン国籍がなく奨学金申請も出来ない。「大学を出て父との生活を立て直そう。」という夢はついえた。日本へ戻ろうにもビザは期限切れで、数十万円の罰金を支払う必要がある。息子は今、支援団体の力を借りて日本へ戻る方法を探している。それに成功すれば、日本で就職して稼ぎ、父を日本に呼び寄せるつもりだ。7月、支援団体を通じて20人以上の新日系人とその家族の日本での就職が内定した。遠い故国が彼らをどう迎え入れるか。フィリピンに残る人たちは、その成り行きを見守っている。 |
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